若者言葉は人間関係を希薄化させる?
  今回の小論文その2は、11月の総合的な学習の時間に行われた「以下の記事を読んで、 あなたが感じたことや見えてきたことを挙げ(複数でも良い)、こころの 『バリアフリー』について、あなたの考えを述べなさい」です。
 なお、読みやすいように一部言い回しを変えてある部分もありますので、あらかじめ御了承ください。
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資料引用先:朝日新聞 2004年9月30日
アテネの風 活躍から見えてくるもの
 高橋明=大阪市障害者福祉・スポーツ協会

 パラリンピアンの活躍は障害者理解につながっていく。「車いすってこんなこともできる」「目が見えなくても、100bを 11 秒台で走れる」と人間の可能性が分かる。「車いすに乗ると、こんな不便もある」と知ることもできる。
 私は日本で最初の障害者スポーツセンターに、指導員として 30 年前に入った。障害のある人と最初に会った時、「このスポーツはできないだろう」と、先入観のようなものを持って障害者を見ていた。
 教えている内に「工夫しだいでこんなにもできる」と障害者から学んだ。パラリンピックに出られないような重度障害者は家に閉じこもりがちだが、ちょっとした工夫で、スポーツも楽しめることを知って欲しい。
 最近は、障害のない人にも車いすバスケットボールが注目され始めている。以前は、車いすに乗るのを嫌がる健常者がいた。障害のある人にも、「障害のない人が何で車いすに」というバリアがあった。
 障害者が足を使えないなら、健常者が車いすに座れば、同じバスケットを楽しめる。この何年かで、互いにバリアを外してきたように思う。
 障害者のスポーツは障害者だけがするものと思っている人も、障害のある人もできるスポーツと考えてみれば、違うものが見えてくる。パラリンピックは、そのきっかけになったと思う。

 僕も同じように障害のある人に「このスポーツはできないのではないか」と先入観をもっていた。しかしある出来事がきっかけでその考えはなくなっていった。
 その出来事とは、公園のテニスコートで車いすテニスをしている人たちを見たことだ。テニスというスポーツはフットワークがとても重要で、コートの中を絶えず動き回らなければならない。そのため僕は「あまりラリーは動かないのかな」と思っていた。しかし驚いたことに「このボールは決まった、取れない。」と思ったボールも追いついて打ち返し、何本もラリーを続けていたのだ。
 このときに僕は、自分たちが勝手な先入観でできないと思っていることも彼らにはできるんだということに気付いたのと同時に、自分の理解の低さにも気づいた。また、少しテニスというスポーツを通して障害のある人たちを見ただけで、その人たちについて理解できた。パラリンピックはそのいいきっかけになると思う。(1年  T.K. )

 私の通っていた中学校の隣に小学校があった。その小学校に車いすの生徒がいた。学校にはたくさんの段差や階段がある。車いすでどうやって生活するのだろうと思っていた。そんなある日、段差をなくしてエレベーターを付けると先生から聞いた。私は、その子一人のために先生方や工事の人が話し合って決めたこと、そしてすぐに実行に移したことが、私のことではないけれど嬉しかった。
 私たちの街には、まだ改善されていない場所がたくさんある。気づいていても、みんな実行しようとしない。「自分に何ができる?」と思っているのかもしれない。私は、自分から提案して、障害者の人たちが住みやすい街になるのを望む。
 「自分一人が考えていても…」という考えはやめて、「自分の考えを広げていこう…」と思う人が増えるといいと思う。(1年  A.H. )

 私も昔は心のバリアがあったと思う。前は障害者を見るたび同じ人間を見るような目で見ていなかった。同じ人間として見ることができるようになったのは、私が自分で障害者体験をしたからだと思う。車いすに乗ったり、アイマスクをして山道を友達の誘導で登ったりと、色々なことをした。でも、これだけでは「障害者の人って大変だなぁ」としか思わなかった。
 ある時、私は一人の女性と話をした。普通に話していたので、その人が耳の聞こえにくい人だなんて後になるまで気づかなかった。その女性はボランティアをよくしていて、とても楽しいと言っていた。私はその言葉が衝撃的だった。耳が聞こえにくくても人のために働くことができるなんて全然思わなかったからだ。
 今ではテレビや本などで障害者のドラマやパラリンピックなど、障害者についていろいろなところから知ることができる。私もまだ完全に心のバリアを外すことができたわけではないが、たくさんの人が障害者について知り、心のバリアを外すことができたら、障害者の人たちも私たちも気持ちのよい世界ができるのではないかと思う。( 2年  M.S.)

 最近街中でもバリアフリーやユニバーサルデザインといったものが増えてきて、歩いていても障害のある人をよく目にするようになった。デパートや乗り物などの環境のバリアを取り除くことはいたって簡単なことだと思う。しかし、心のバリアはそうはいかない。気づいてもなかなか直らないのが人の心である。障害者が健常者の目を気にするように、健常者もまた障害者の目を気にしているように思う。
 例えば障害者の方がバスに乗ってきたとき、周りが少し静かになる。このとき健常者は、障害者を少なからず意識して、普通の他人とは違った、何か別の見方をしてしまう。心のバリアである。それでも最近はそのバリアの中に「差別的な意識」というものがなくなってきたと思う。「いやだなぁ」と思うのでなく「どう接したらいいんだろう」と考えるようになってきている。障害者の方が嫌に思わないようにどうすればいいんだろうと考えすぎて、逆にそれが障害者からすればバリアに見えてしまうのではないだろうか。「障害」というものに対しての差別は減ってきた。だがそれから先にどう進めばいいのかが、まだ今ひとつ分からないのだと思う。
 「自然に接したい」と思っている人はたくさんいると思う。けれど、逆に「障害」というものをいい意味で意識して、健常者の方が「障害」に触れて理解していかなければ、本当に「自然に」接することは難しいと思う。
 そう考えれば、健常者が車いすでバスケットをするというのはとてもいいことだと思う。そういったことがもっと積極的に教育などにも含まれていけば、心のバリアフリーが社会全体の空気となり、もっと進んでいくのではないかと思う。 (2年 E.F.)